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聖マリア・マグダレナ・ポステル修道女     St. Maria Magdalena Postel V.       記念日 7月 16日


 聖会を滅ぼそうとする迫害者は、いつもまずその指導者階級なる司祭聖職者たちを狙う。これは牧者さえ打ち倒せば、子羊の群れは四離滅裂に陥る外はないと思うからである。しかし司祭を失った場合も熱心な信者が臨時指導者の地位に立ち、兄弟姉妹を引き締めてゆけば、立派に迫害の波風を凌ぎ救霊の彼岸に着くことが出来る。聖女マリア・マグダレナ・ポステルはかような難局に人々を励ましその信仰を固めた烈婦であった。彼女は1756年11月28日、フランス北部ノルマンディー州のバルフレウル港に生まれ、受洗の際には霊名をユリアとつけられた。両親は共に熱心な信者で、幼いときから我が子を公教の趣旨に従って育てた。ある日のことである。ようやく3歳になったばかりのユリアをつれて、母が近所の聖堂に参詣し、お祈りを始めると、ユリアは廻らぬ舌で母に話しかけたり、その辺を歩き回ったりして、少なからず邪魔になった。で、母は「そんなにお行儀の悪いことをすると天主様のよい子になれませんよ」とたしなめたが、それを聞くとユリアはさもびっくりした様子でにわかにおとなしくなり、しかも後々までそのいましめをよく覚えていたそうである。
 ユリアがどれほど宗教に熱心な信者であったかは、当時は異例の、僅か9歳で初めての御聖体拝領を許されたことによっても伺われよう。彼女はその時一生童貞を守ることを誓った。そしてそれからも暇さえあれば御聖体の主を訪問したが、その聖堂へ急ぐ態度の敬虔さは、見るほどの人に「まるで小さな聖女だ!」と思わず叫ばしめる位であった。
 その中に両親は彼女を教育の為ヴァロンニュなるベネディクト修女会に託した。その後ユリアは引き続きその寄宿舎に生活し、再び父母の膝下に戻ったのは18歳の時であった。やがて彼女は小さな学校を開き、貧民の子供達を集めて教え始めた。そして夜になれば、相変わらず聖堂に参詣して御聖体の主にまみえるのを何よりの楽しみとしたが、その際いつも不信の人々の為に主のお恵みを祈り求め、徹宵することも度々あった。そのせいか彼女は実際信仰に冷淡な人達を熱心へ導くことが甚だ巧みであった。
 ある時御復活の務めを長く怠っていた婦人に、ユリアはそれを早く果たすよう誠心こめてすすめたが、相手が「でも私はお聖堂へ着ていく着物がないので・・・」と言い逃れすると、彼女はすぐ様自分の晴れ着二枚の中、よい方を差し出し「それではどうぞこれをお使い下さい」と言ったとのことである。
 彼女は「能う限り」の善をなせ、しかも窃かに!」という言葉を処世訓として、徳を磨きつつ。故郷に16年を過ごした。しかるに1790年突如として巻き起こったのは、史上に名高いフランス大革命の旋風であった。
 聖会撲滅を意図する革命者達は、ミサ聖祭その他の聖務の執行を厳禁すると共に、司祭男女修道者達を見当たり次第に捕縛拘引しては断頭台に送った。かような事態ではもちろん信者等が聖堂に集まるなど思いもよらぬ。そこでユリアは発覚したら生命を奪われるのも覚悟の上で、自宅階下の穴倉を秘密聖堂に改造し、そこに御聖体も安置すれば時々御ミサも立ててもらうようにした。そして信者の家を廻り歩いては彼等の信仰を励まし、子供達に公教要理を教え、また革命者等の大罪を償うため、多くの苦行や祈りを献げたいという念願から外ならない。
 毎週木曜日の晩には主イエズスの御苦難を黙想するのが例で、しばしば一睡もせずに夜を明かすこともあった。御ミサを献げる司祭が来ると、彼女は窃かに信者の有志を集め、共に聖祭にあずかる。会衆の上に危険が及びそうになれば、身を以てこれを護る。革命者側ではユリアの身辺を疑って幾度となく家宅捜索も行ったが、幸いにもついに秘密聖堂には気がつかなかった。
 ユリアはまた迫害中女の身ながら及ぶ限り司祭の代理をつとめ、病人を見舞っては善終の覚悟をさせ、必要と思えば深夜など人知れず司祭を招いて秘蹟を授けてもらい、司祭の訪問し得ぬ場合は黄金のピンセットで御聖体をパテナから絹の布に移し丁寧に包んで胸に抱き病人の許に持ちゆくのであった。そしてそれは彼女にこの上ない喜びを与える仕事であった。
 革命騒ぎが過ぎてナポレオンが国内の秩序を快復するや、信仰の自由は再び与えられた。ユリアはそれからシェールブールに招かれ、生徒数300人ばかりの小学校の校長になったが、革命前に比して児童達の宗教知識があまりに欠乏しているのに驚き、とても独力では救い難いと思い、同志の婦人達を募って教育を目的とする女子修道会を興すに至った。
 その前に先ずその計画をカバールという司祭に打ち明けたところ、師は心配そうに「しかしそれを実現する為の資金がありますか?」と尋ねたが、それに対しユリアは自分の両手を差し出して「神父様、御覧下さい、これが私の資金です」と答えたという。空手を以て聖なる事業に邁進する彼女の意気やまたさかんではないか。
 彼女が修道誓願を立てたのは1807年のことであった。その時彼女はユリアという名を改めてマリア・マグダレナと呼ぶことになったが、それは従前の自分の功績を人々に忘れさせる為であった。彼女はわが修道会の事業をことごとく慈悲深い聖母マリアの御手に委ね、天主の御摂理に信頼した。修道会を創立するまでにも、もちろん数多の困難に遭遇したが、彼女の深い信頼は天主のよみし給う所となって首尾よく目的を達成し得たのである。彼女が修道生活に入ったのは41歳の時であった。それから80の高齢に至るまで彼女は戒律を厳守し、祭服や聖堂の装飾品を造ることを楽しみとし、清い生涯を送ったが、ついに1846年7月16日、カルメル山の聖母の祝日に永眠した。
 マリア・マグダレナがどれほど他人の救霊を熱望していたかは、彼女が常に誦えていた次の祈りによっても知られよう。
 曰く「手よ、私が縫い物をするとき。その一針ごとに、一結びごとに、一つの霊魂を救い給え。アーメン」

教訓

聖女マリア・マグダレナ・ポステルは迫害中も生命を的に司祭を助けた。これは救霊に司祭職というものが甚だ必要なことをよく知っていたからである。そして彼女はそれによって多くの霊魂を救った。我等も救霊の為働く時には、いつも司祭と協力することを忘れてはならぬ。